突っつけば、それへの対応が否応なしに始まる。
形勢が決まるまでは、何かしらのやり取りが続く。
形勢が決まった後は、その状況を動かすのは、なかなかに難しい。
だから、その形勢を制してしまいさえすれば、一旦は勝ちだ。
で、これから囲碁の話を長々と始めてしまう。
続きを読む気がある人は、少々付き合ってほしい。
囲碁は陣取りゲームだ。
白黒の石を使い、陣地を囲い合って、その大きさを競う。
囲碁だと、自分の陣地をがっちり固める兆候を見せたり、相手の陣地を攻撃すると、その箇所に双方の石がわんさと集まり、その箇所での形勢が概ね直ちに決まる。
形勢の評価は、自分が優勢、相手が優勢、まあ互角、といった感じでファジーなもの。
局地的な戦いがまさに始まらんとしているその箇所は、自分が意図して放置していた箇所かもしれない。
他に優先すべきところがある、とかでね。
その経緯はともかく、どこかで戦いが始まったならば、放置はできない。
何らかの対応はしなければならない。
もちろん、放置するという選択は常にある。
しかし、放置すると、その箇所の地(陣地みたいなもの)を減らすか捨てることになる。
囲碁は陣取りゲームだから、地を捨てるのは、とんでもなく不利になる行為だ。
しかも、将棋のような一発逆転、という光景は、囲碁ではあまり見られない。
いや、ないわけではないのだけれど、大ポカをやらかすとか、そういうレベルだ。
だから、超初心者同士でない限りは、放置はされない。
その部分での形勢が見えるまでは、戦力、すなわち手番の投入が行われる。
場合によっては、形勢が見えるだけでは済まず、事実上の決着がつくことも珍しくはない。
さて、囲碁の超初心者同士だと、相手の模様(仮の陣地みたいなもの)に攻め込む、という発想が希薄なことがある。
囲碁だと、石はかなり自由に打てて、攻めも守りも強制されず、大体は自分次第。
将棋では攻めないことには何も始まらないが、囲碁では攻めなくてもゲームは進められる。
そこで、超初心者同士の対局が経る典型的な展開の一つは、最初からお互いが自分の地をひたすら作っていくだけ、というもの。
つまり、お互いに攻め合わず、守りに徹するという感じ。
これは、十三路盤という、練習用の一回り狭い盤面で起きやすい。
超初心者の白黒それぞれが、模様をひたすら固め続けて、それぞれの地が明確かつ不可侵なものとなり、打つところがなくなる。
その時点からは、余った箇所の取り合いになる。
そういう展開の場合、盤面で余る箇所は多くはないから、お互いの地もほぼ増えない。
石の生き死にも起きることはなく、ただただ駄目を詰めていくだけ。
この駄目を詰めるという行為は、勝ち負けにはほぼ関係ない。
未確定の境界線をひたすら確定させていく、エンドゲームに向けた単純作業的なものだから。
そういう戦いは見ていて面白いものではないし、やっている本人たちも面白くはない。
なので、超初心者が対局を重ねていくどこかの時点で、相手を突っつく隙がありそうな箇所へ、えいやと攻め込んでみるようになる。
すると、先に述べたような戦力集中が発生する。
そのようにして、攻め込むことは相手の応戦を直ちに呼び、メリットと同時に少なからぬデメリットがあると学ぶわけだ、多分。
囲碁にも定石が当然ある。
序盤の模様作りから、石の生き死にに関するものまで、色々だ。
序盤の定石は、お互いが最後まで打ち終われば、その箇所の形勢は概ね互角になる。
しかし、まだ石の密度はお互いスカスカで、形勢未確定の状態ではあり、今後への含みは残されている。
その含みをいつ使うのか、何と引き換えに使うのか、というのが囲碁の面白さの一つ。
用途としては、どういうものかの説明はしないけれど、コウ合戦とかにね。
ボードゲームのもう一方の雄である将棋は、どうだかよく知らない。
でも、似たような感じの概念はあるのではないかな。
最初は陣地固めを双方が行う。
そして、相手の陣地のどこかを突っつくことで、本格的な戦いが始まる。
将棋は囲碁より盤面が狭いから、展開のスピードは早いのだろう。
似たようなことが仕事でもある。
みんなが見て見ぬふりをしていることがある。
分かっていても放置していることがある。
それに対して、あえて声を上げる人間が出たとする。
となれば、みんなは何らかの旗色を示さなければならない。
何も反応しないことも、「どうでもいいっすよ」という意思を示していることになる。
これ、長々と囲碁で例えたことと同じなんだよね。
その人は、取れそうなところを突っついている。
囲碁でも何でも、先手が有利。
だから、放置すると、その人にその箇所をごっそり取られかねない。
自分のものだと主張しないと、応戦しないと、取られる。
何となく自分のものだと思っていたことでも、あっさり取られる。
取られた後ではもう遅い。
相手はその箇所にしっかりとした自分の陣地を築いてしまう。
その陣地は、そう簡単にはつぶせない。
あとは、後から仲間に入れてもらうか、いっそ反逆するかくらいだ。
それでは、主導する役割にはなれないし、牛耳ることもできない。
嫌々ながらも従うだけになる。
余っている箇所があるか、手つかずの箇所があるか、観察して調べる。
あるなら、突っついてみる、手を挙げてみる。
そうして、対抗者がいなさそうなら、ごっそり取ってしまえ。
一旦取ってしまえば、好き勝手に、やりたいようにできる。
その箇所のルールを自分が作れる。
結構面白いよ、そういうのは。
対抗者がいるのなら、共同戦線を張ってしまえ。
取り分は減るが、それでもかなり自由に振る舞える。
ある程度はやりたいようにできるし。
自分のものだと主張できる箇所の多さが、意見の強さ、立場の強さにつながる。
意見の強さは、振る舞える範囲の広さや自由さにつながる。
そういうものは、自分の実力を示して、自分で手に入れていくものだ。
他人から与えられるものではない、決して。
上位者から、そのような行動や立場を、暗に陽に認められる、という感じだ。
まあ、 同時に責任みたいなものも増えていくのだけれど、それは累進課税の税金みたいなもので、どうせ逃れられない。
素直に受け入れよう。
何も行動に移さないまま、やりたいことができない、と愚痴を言う人がいる。
そういう人が言うやりたいことって、実際のところ何なんだろうね。
どこに行けば、いつまでさすらえば、その人のやりたいことができるんだろうね。
その人のやりたいことができる場所、というのは果たして存在するのかな?
自分としては、今いる場所でやりたいことを探す方がいいんじゃない? という気がしている。
少なくとも、探すのを試みてもいいんじゃない?
誰もやっていなくて、それでいて、自分でもできそうなことを。
探してみてもないんだったら、仕方がないのだけれどさ。
いっそ、やりたいことを作ってしまう、というのも手としてないではない。
自分の居場所や自分が居る理由を、今いる場所に、自分自身で作ってしまう、という感じ。
それに夢中になっていれば、最初にやりたかったことは、だんだん忘れ去られていくのではないのかな。
なぜなら、「やりたいこと」というのは、「夢中になってやれること」の、違う言い回しなだけじゃないのかな、と自分は思っているから。
やれることをその場所でやり尽くしたのなら、晴れてその場所を卒業すればいい。
そうすれば、また別の場所に「やりたいこと」が待っているのではないのかな。
突っついてみれば、そういうことになるかもしれない。