今まさに、みかんを食べている。
この季節なら、みかんよりりんごを本当は食べたいのだ。
でも、りんごは最近妙に値段が高くなってしまって、なかなか手が出せない。
別に買えないわけではないのだけれど、りんごのバラ売り一つの値段が安めのスーパーでも二百五十円近辺というのは、自分にとってはハードルがちょっと高い。
二十年くらい前だと、品質が少し劣るものなら百円以下で買えたのを今だに覚えていて、店頭で値段を観た時の判断がそんな記憶にどうしても引きずられる。
みかんも相当高くはなっているのだが、一つ一つ食べられるのでお得感がある。
なので、この冬はみかんで過ごしている。

みかんを食べる時は、みかんの筋を取るのに夢中になってしまう。
みかんの房に付いている筋や白いふわふわは、つま楊枝とかも使いつつ、取れるものはすべて取ってから食べる。
筋を取るだけではなく、房の中身をつぶさないことも重要だ。
なので、みかんの皮をむくところから、みかんとの戦いは始まっている。
それに、皮をむく時点で、ある程度皮と筋が一緒に取れていることが好ましい。
筋を取る手間が省けるからね。
それに、筋が皮と一緒にごそっと剥がれていく感覚は、かなり気持ちいい。

こんなだから、自分がみかんを食べると時間がかなりかかる。
食べている時間というより、ほぼ筋を取っている時間だ。
食べるのは一瞬だが、そこまでの準備がひたすら長い。

みかんの筋を取っている時間は、ささみの筋を取っている時間と何となく似ている。
ささみも、筋がうまいこと取れると実に気持ちいい。
筋の周辺に包丁で切れ込みを入れ、クッキングペーパーか何かで筋を押さえ、包丁の背を当てつつ一気に抜き去る。
これがたまにスパッときまる時があって快感なのだ。
失敗して筋が途中で切れてしまったり、筋に肉が多く付いたまま取ってしまうと、ちょっと嫌な気分になる。

夏みかんやはっさくだと、自分は房をむく食べ方をする。
まあ、普通だと思う。
それらの筋を取ることには意味がないのでやらないが、その代わり、いかにして房をつぶさずに皮をむくか、房を一つ一つにばらすか、房の皮を切り離すか、がより重要になる。
各段階での力の入れ方次第では、房の中身がぐちゃぐちゃになってしまう。
そういった、房の中身がぐちゃぐちゃな夏みかんやはっさくは許されざる存在だ。
夏みかんやはっさくを食べる時の楽しみは、房の中身の一つ一つの粒を口の中でプチプチつぶす感覚だ。
その感覚のない夏みかんやはっさくは、食べていてもいまいち嬉しくない。
単にそれらを味わいたいだけなら、あらかじめ絞ってあるジュースを飲めばいいのだから。
そうやって房の中身を一つ一つ積み上げていくのであるが、食べてしまうのは一瞬だ。
儚い。

ここまで書いてきたことは、人によっては全然気にしないことだ。
なので、自分は几帳面と見られることが多いが、自分の感覚としては几帳面でも何でもない。
みかんの類を自分がああいう感じで食べるのは、そう食べるのが自分にとって一番いいからに過ぎない。
そこにある程度の手間なりコストをかけてでもそうしたい、という思いがあるだけ。
(悪い意味で)いい加減にやるとかあえて手を抜くことは普通のことだし、こんな細かくやることはごく一部でしかない。
すべてをすべてあの調子でやっていたら、何も成せない。
几帳面と完璧主義者が合体したら、文字どおり一歩も進めないのではないかな。
さらに、そこに潔癖症が合流すると事態はさらに悪くなる。

まあ、人の行動にはその人の価値観が率直に現れる。
自分の価値観というのは、自分で分かっているようで分かっていない。
なんでそれをそうやるんだといちいち理由付けをしてからやる人はまずいないだろうから。
でも、ちょっと立ち止まって自分の行動を観察してみるのも面白いのではないか。
そして他人のそれも観察する。
そういう観察が幸せにつながる道でもある。
誰かが幸せになれる手段を提供することこそが、仕事というものの根本的な価値なのだから。