採点

レビューする側に必要なのは見た経験である。
いいもの悪いもの。
普通なもの普通ではないもの。
簡単なもの複雑なもの。
具体的なもの抽象的なもの。
そういった区別なく、とにかくたくさん見たことがなければならない。
それらに差があることを認識できなければならない。
その差が何かを言葉にできなけれならない。
今見ているものが今まで見てきたものの中でどのレベルに位置するものなのかを推定できなければならない。
そうでなければレビュワーは務まらないと私は思う。

以下はコードレビューに話を絞る。

レビューでは大抵二つあるいは三つのことを行う。
1.規約やルールに沿っているかの確認。
2.仕様どおりに実装されているかの確認。
3.良いところ、悪いところの分析や品評会。
1.は機械的にできるし、そうだからこそ誰にでもできるレベルの低いレビューだ。
これはレビューイが責任もって対応すべきレベルのものでもある。
2.は私も昔は重視していたが、今はそうでもない。
むしろ前提条件なしにレビューするべきなのでは、と思わないでもない。
なぜなら前提条件なしで読んで意味がわからないものは、実際に碌なものではない。
それに仕様どおりかそうでないかは、どうせ続けて行うテストで判明するからだ。
また仕様を把握・理解するのに時間がかかってしまい、未レビューが溜まっていく。
3.は機械にも一応できるのだが、文脈依存もするし過去からの経緯も混ざってくるのでなかなかに容易ではない。
しかしレビュワー・レビューイ共に成長できるのはこの手のレビューである。
とは言え、実際は1.と2.に埋め尽くされ消耗してしまうのであって、私の経験からすれば、3.のレベルのレビューができているプロジェクトは少ないように感じられる。
それに規約やルール以上の信念や美学、プロ意識のようなものが必要になっても来る。
目の前にある作業を片付けるという意識で取り組んでいては、プロ意識のようなものは永遠に身に着かない。

また、作った後にレビューをするものだと思っている人がほとんどだ。
実際の作業フローでもそうなっていることがほとんどだ。
でも本当は作る前にレビューが必要である。
どう作るのかということのレビューが必要である。
その時点でレビュワーとレビューイの認識が合っていなければならない。
レビューとは、こう出来てくるはずというものと実際にできてきたものの突き合わせをするものだ。
ここで、規約どおりであるとか業務仕様どおりである、というのは当然のことなのでそういったことの認識合わせをすることには意味がない 。
どう作るか、ということを作る前に認識合わせする。
その事前認識合わせができているなら、1.や2.は最小限の時間で済ませられる。
また作っている際中にレビュワーに中間状態を見てもらってもいいのだ。
むしろその方がレビュワーとしては安心できる。
開けてびっくり玉手箱、になるよりはずっといい。
コードを共有する手段などいくらでもある。
あるいはちょっと来てくれ、でもいいのだ。
それで後工程での手間が省けたり、戻りのリスクがなくなったり、一発OKの可能性が高まるのなら喜んで付き合う。

仕事とは学校や試験会場でやるようなテストではない。
生徒や受験生が提出してきたものを先生や採点者が100点からの減点法により採点するものではない。
仕様どおりの動作という意味では100点が当たり前なのであって、100点が取れるまで次に進めないし周囲からも許されない。
問題に対する完全な答えが必ずある保証はどこにもない。
もしかすると問題そのものが間違っているのかもしれない。
皆で試行錯誤しながら、暗中模索しながら、すべてを疑いながら、答えらしきものを探って作っていくプロセスが仕事である。
そのプロセスに生徒や受験生のような意識で関わって来ないでほしい。
何にでも使える万能な解決方法や公式などITにはない。
そんなものを求めても無駄である。
それはITの混沌とした状況、つぎはぎだらけで行き当たりばったりなやり方、車輪の再発明を繰り返している様子、方法論自体が百年近く前から何も変わっていない様子、力技でのごり押しを解決や進歩と呼んでごまかしている様子を見れば明らかだ。
そういうカオスな状態に放り込まれた時に、自分としてはこう考える、という芯のようなものがなければ状況に流されていくだけだ。
基礎から積み上げて導き出した自分の考えこそが必要なのだ。
また自分の考えがなければ他人の成果物への本質的な指摘はできない。
初めて遭遇したものに対していいものなのか悪いものなのかの判断ができない。
自分の今までの考え方ややり方を改めるべきなのかがわからない。
減点法による採点しかできない人間には、答えと合っているか合っていないかの比較がレビューであると勘違いしている人間には、より良いものは考えられないし他人をより良い方向へは導けない。

…などと常々思っているわけだが、だから私は厳しすぎるといわれるのだろう。
まあいいか、別に。

献血262回目

献血回数:262回目 前回 次回
実施日時:2026/03/22 10:30~13:40くらい
実施場所:献血ルームフェイス
献血方法:血小板
次回献血可能日:2026/04/05(全献血方法)
備考:今度は船橋だ。船橋という地名を聞いた時にピンと来るものが正直あまりない。だが献血ルームがあるのだから人は集まるのだろう。この献血ルームは駅ビルの七階にある。ビルの手前で呼び込みは行われているが、JRの駅からは離れている。とは言え、迷うことはなさそうではある。受付の時にスポドリを番号札と共に渡される。ここのロッカーはダイヤル式。ロッカーに荷物を入れたらすぐ受付の続きで呼ばれた。受付の窓口は三つ。受付時に処遇品を聞かれるが、今回も貰わずポイントは貯める。体温測定は受付の時。番号の書かれた紙は右手首ではなく左に巻く。そしてすぐさま問診へ。流れが早い。問診室は一つ。医師が各種数字を紙に書いている。ミス防止だろうか。さらにそのまま検査へ。さすがにここでは待つ。検査の窓口は四つ、血液検査の機械は二つ。窓口の一つは全血専用、二つは成分専用、残り一つは兼用。検査を待ちつつ採血室を眺める。ベッドの数は普通くらいで、成分が十二で全血が四の十六だと思われる。ロビーとは二つの通路でつながっている。検査の時と採血の時のもの。検査待ちのところにテレビがあるのは珍しいかもしれない。船橋はバスケのチームがあるようで、駅前にもそれらしき掲示があり、ルーム内にもそれにからめたポスターがある。「献血で決めるぜ! 愛のダンクを!」だそうで。検査では、検査用に採血した後の止血で包帯を巻かれた。これは珍しいと思われる。普通は絆創膏を貼られて押さえて終わりなのだけれど。今回は数値が出る前に血小板にしたいと看護士さんから言われる。時間がかかるがいいかと聞かれ、当然ながらよいと答える。ベルと一緒に、カルシウム補給のいつものウエハースを二つと、カロリーメイト半分をもらう。昼前なのと朝食から時間が経っているため。予約時間より早めに来て、検査までサクッと終わったのでしばらく待ちになり、ようやくロビーに入る。ロビーの印象はザ・普通。デザインに何かのテーマがあるわけではなさそうだ。目立つものと言えば、受付の後ろの壁がタイル張りになっているところか。そしてこの献血ルームのマークであろう顔が光っている。顔なのはフェイス(face)というビルにあるからかな。内装で凝っているのはそのくらいで他に目立つ装飾などはなく、せいぜいバスケ関連のパネルが壁にあるくらいか。椅子はソファーが中心だ。そのソファーの色が茶色で、ロビーの全体的なイメージがそれで決まっている。照明は普通の蛍光灯でひねりも何もないのだが、これは実は結構珍しい。本は置かれていない。ちょうどよさそうな棚はあるのだけれど中身はほぼ空。お菓子が置いてあり、クッキーや煎餅があった。窓からは船橋駅がよく見える。飲み物の自販機は二つで、紙コップは汎用品。自販機の前に待ち時間に座るための椅子がある。立川でも同じようなものがあったな。そうして待っているとベルが鳴って呼ばれた。ベッドに行って横になる。ベッドには砂時計はない。採血開始時点では保温体制は特に強化されなかったが、フロー警告がたまに出ていたので、そのうちお湯ビニを持たせられ、上半身にタオルを掛けられ、手首の上にお湯ビニを乗せられた。採血中はテレビを観ていた。が、つまらないので機械が動く様子を見ていたりもした。ポンプが回って血が溜まり、それがいずこかに吸い込まれてまた血が溜まって…を延々と繰り返す。あの血が私の体の中にあり、また戻ってくるのだよな、となんとなく思う。やはり私が血小板をやると遅い。周りのベッドはどんどん交代していく。そうしている間に終了。ベッドから下りた後の足踏み運動はかなり間抜けではあるが効果はちゃんとあるのだろう。終了時の追加処遇品はなし。処遇品は貰わず。採血機はトリマアクセル。


もやもや

「書ける」と「運用し維持できる」は違うものだ。
「動く」と「きちんと動く」は違うものだ。
ソフトウェアの価値とは書いたことにより直ちに得られはせず、書いたものがきちんと動き続けること、さらに必要な時に必要なように変えられることで初めて得られるものだ。
…と意地を張ってみたところで、もうあまり意味はないのかもしれない。
ずっと昔はデータ量を抑えることが求められた。
演算は最小限にすることが性能達成の秘訣だった。
ソフトウェアを書き動かすにはハードウェアの理解が必須だった。
その上で情報処理や通信の基礎概念や基礎理論が理解できているほど有利だった。
しかしそれらのノウハウや慣習のようなものは今となってはもうほぼ意味がない。
ハードウェアの大容量化、高速化によって覆い尽くされ目に見えない。
ソフトウェアの未熟さや拙さもハードウェアに余裕があることでいくらでも誤魔化され表面化しない。
ハードウェアの力をソフトウェアで完全に引き出す必要がある状況はもう限られる。
また人間が意図して書いた最適化よりもAOTコンパイラの事前最適化やJITコンパイラの実行時最適化の方が簡単に上回ってしまう。
だからソフトウェアそのものも似た道を辿るのかもしれない。
ハードウェア寄りのソフトウェアを理解でき実装できる人間は、関係者の割合から言うならごく少数でいい。
ソフトウェアは抽象化により自身を駆動するハードウェアを直接見えなくする。
それが他の分野と大きく違うところであるはずだ。
いわゆるモノづくりと言われているものは物理環境や物理的制約との戦いである。
資源も必要だし設備も必要で、大量生産を行うならロジスティクスやサプライチェーンの問題も出てくる。
だがソフトウェアは違う。
ソフトウェアの歴史が抽象化の歴史であるのなら、表現方法の抽象化の追求であるのなら、仕様駆動開発はその自然な発展形であると言える。
人間が行うべきことは仕様の明確化とその記述であり、その実装方法は問われないし知らなくてもいい、ということなのだから。
これは抽象化の観点からは理想的な状況に近くなっているはずだ。
未来に引き継ぐべきものは仕様であり、実装ではないということなのだから。
仕様が残る限り、その実装はその時にあるハードウェアで動かせるものをすぐに提供できるということなのだから。
ソフトウェアで扱うべきデータも、その時々のハードウェアに合わせて移行していけばいいだけなのだ。
それらの手法が現実的なものになってきたことにより、数十年前に楽観的にしていた想像よりもソフトウェアという存在が人々に対して近づいたのは喜ばしいことであるはずだ。
そのような環境であれば、ソフトウェアとハードウェアが直接関わるようなレベルを理解しておくべき人間の量は最低限でいいのだ。
しかし私としては抵抗感や警戒感がどうしてもある。
それが冒頭に書いたことであったりする。
品質や複雑性というものを甘く見ていないか、と。
ソフトウェアやシステムというものの複雑性は昔から変わらない。
人が集まることにより起きるカオスな状況も昔から変わらない。
一つ一つの小さなソフトウェアは簡単に作れるようになったのかもしれない。
だがソフトウェアが集まって形作られるシステムのレベルではどうなのだろう。
さらにシステムが集まったSystem of Systemsのようなレベルではどうなのだろう。
そういうものを今まで少なからず作り見てきた私としては不安がある。
明確な意思や方針の基に作られなかったものがどうなるかを私は見てきた。
業務の組み合わせの考慮の欠如や、 業務におけるエッジケースを明確に認識・定義できておらず、思い込みで仕様が決められ実装されてしまったことによる障害を見てきた。
業務の中核となるデータに対して、おかしなスキーマ定義をしてしまったがために、以後の業務を行う上で大きな制約が課せられてしまったのも見てきた。
明らかにおかしな仕様で作られてしまった部品や基盤のせいで、システム全体の構成が歪み拡張性が損なわれている様子も見てきた。
業務の定義がきちんと行えなかったり、関係部署との調整が難航・失敗し、結局何かの業務のシステム化が果たせない様子も見てきた。
その手のソフトウェアにまつわる混乱や混沌は、既にソフトウェアの進歩の過程における過去の遺物でしかないと切って捨ててしまえるものなのだろうか。
混乱や混沌の中から秩序が自然に生まれてくるものなのだろうか。
ソフトウェアに秩序や安定をもたらすものは何なのだろうか。
システムというものは業務の言葉だけで定義できるものなのだろうか。
業務のプロフェッショナルと、ソフトウェアやシステムのプロフェッショナルを分かつものがあるならそれはなんなのだろうか。
システム開発における効率とはなんなのだろうか。
そんなことを私はつらつらと考えてはいるのだが、結論は一向に出ない。
そして私が現役でソフトウェアやシステムに関わっている間に、ドラスティックに状況が変わってしまって、私が役立たずになってしまうのかもよくわからない。
まあそれでも定年までは生き残れはするだろうから様子を見ていようと思う。

壊れる

私は病院にはほぼ行っていない。
そして病院というところは私にとっては縁遠い場所でもある。
これまでは尿路結石の痛みが出て我慢しきれない時に痛み止めをしに行くくらいだった。
なのでいわゆるかかりつけの医者という存在が私にはいない。
私は人付き合いをしないので知り合いが入院したなどで病院へ行くきっかけもない。
今の親は子供をすぐに病院へ連れて行くというし薬を飲ませるという。
私の親はそういうことはせず、私自身も体調が悪くなること自体がほぼなかった。
私は未熟児として生まれたそうで、それを引きずっているせいか昔から痩せぎすな体ではあるけれど、それでも耐久力は妙にある。
だから病院に行くと安心するとか、逆に病院は信用ならないとかの世の中で言われていることがどれほどのものなのかが、実体験上でわからない。

もちろん私も薬を飲みはする。
でもせいぜい今のような花粉症の時期に市販の抗アレルギー薬を飲むくらいである。
なので社会で問題になっていると聞く、薬漬けや薬物依存などのことも正直言ってよくわからない。
依存という観点では、酒もタバコも賭け事も私はやらないので、これまたよく言われる依存症についても全然わからない。
依存症からの根本的な離脱は非常に難しく、離脱に成功する人はごくわずかだと言われるが、それも実際にどれだけ辛いものなのかが私にはわからない。
突発的な事故にあったこともほぼない。
まあ車に轢かれたことはあり、走っている車から落ちたこともあり、自転車に乗っていて障害物にぶつかり宙を舞ったことも数回あり、バイクに乗っていて転倒し道路の上をすべったこともある。
しかしそのすべてでたまたまだとしても大した怪我はしなかったし、入院もしていない。
こんな感じで医療の発達や医療にまつわる問題から一歩離れていて、当事者意識も何もなく、悲惨な状況を実際に見たこともないのが私なのである。
なのであまりに人生経験が足りなさすぎないか、という気はやはりする。
でも今まで経験してこなかったのは事実なのだから仕方がない。

こんな私が世の中を見ていてなんとなく感じるのは、欲望に忠実・素直になった時のつけを体調不良や病気という形で払わされているだけなのではないのか、ということだ。
そして昔は単に自己責任や自業自得とされ個人や家の範囲で収まっていたその手のつけが、人権という万人が持つとされる強固で問答無用な力をもつ後ろ盾を得たことで歪んだ形で正当化され、いつの間にか社会制度に大きく影響するまでの規模になってしまったのでは、ということでもある。
医療の発達は生存率を高め寿命を大きく延ばした。
まだ至らないところは多いとは言えども、対応できる範囲のことなら治してしまうし生かしてしまう。
それには功罪の両面がある気が私にはする。
例えば資本主義は、ものすごく単純化してしまうと世の中の人数が多いことに依存した制度である。
だから今の資本主義の発達は医療の発達がなければなし得なかったのではないのかとも私は思う。
そして資本主義にも功罪があり、人々の欲望を駆動力とすることへの是非が語られる。

罪悪感がありつつもやってしまう。
やっては駄目だとわかっていてもやってしまう。
私も人間なのでそういうものは当然ありはする。
でも飲み食いの範疇においてはない。
普段の生活を思い起こしても恐らくかなり質素であり、むしろストイックと言われるのかもしれない。
ご褒美という名目で箍を外すようなこともない。
皆がやっているから、流行っているから、せっかくだから、身体にいいとされるから。
そういうものは数多いし、いろいろな理由をつけた上で、どんどんやれと世間はそそのかしてくる。
しかし私はその手のことはどうでもいいことだと思っており、いくら誘われてもメリットを語られても乗らない。
もちろん私も興味を持った時には覗き込むくらいはするが、のめり込みはしない。

私がその手のことに感じるのは面倒くささである。
そして喧伝されているほどの効能が本当にあるのか、という猜疑心もある。
さらにその効能を得るのに必要となる様々なコストをビタ一文払いたくないというケチさが根本にある。
今でも困っていないのにそこへ無理に上乗せすることもないだろう、という感覚である。

今あるものだけでやり繰りする。
今あるものを壊れるまで使い続ける。
それが昔から私が行ってきたことであり、私はこれからもそうであろうと思われる。
他の人がどう思っているか、どう振る舞うのかは知らないし、私の関与すべきことでもあるまい。

私の体というハードウェアが壊れるまではそう遠くはないわけだが、壊れる時は復旧不可能なまでに一気に壊れて動きを止めてしまってほしいものだ。
微妙に動く状態だったり、手を入れれば直りそうな感じだと、周りが無理矢理にでも直そうとしてくる。
その無理矢理は自然の摂理や今までの進化の方向性に反した無理矢理であるが故に高コストなのである。
人権という地球の歴史の上ではごく最近出てきた人工物が持つ妙な建前を自然の摂理を曲げてまで押し通すことにはかなりの無理があるように私には感じられる。
技術的にできるからやる。
やるべきだと信じるから多大な社会的コストを支払ってでもやる。
そういう姿勢もわからないではない。
そういう姿勢を歓迎する人も多いだろう。

やりたければやればいい。
未来がそう長くもなさそうな私は止めはしない。
その未来に私はいないのだから好きにすればいい。
でもあくまでそちらの都合でしかないのだから、こちらの意思を無視して巻き込まないでほしい。
と、古い考え方から脱しきれない頭の硬い私は正直思うのである。

批判っぽいなにか

AIにこの文章を読ませたところ「それは批判(criticize)というより批評(critique)なんじゃねーの? まあ広く捉えれば批評と言えないこともないけれどさぁ」と言われた。
確かにそのとおりだ。
でも書いてしまった以上は直す気もない。

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批判的思考は様々な立場でのなぜを問う態度である。
論理的思考も一見似たようなものだがかなり違う。

論理的思考では伝えたいことはトップメッセージという形で固定されている。
論理的思考とはトップメッセージを支える理由を掘り下げ強固なものにしていくための技法である。
ここで主張すべきトップメッセージは恣意的に選ばれるということが重要だ。
多くの場合、例えばコンサルが行う論理的思考では顧客のためになること、つまり顧客が得られる利益を最大化したり将来のリスクを最小化するために顧客がこれからすべきことをトップメッセージにする。
しかし論理的思考においては常に他者のためになることがトップメッセージとして求められるわけではないのだ。
論理的思考は単にトップメッセージの理由付けをするだけなのである。
だからその目的が邪で不品行なものであっても論理的思考は何も問題なく適用できる。
論理的思考はあくまで説明や説得の手段であって価値中立なものである。
これは論理というものの性質がわかっていれば当然であり不思議でも何でもない。

論理の正しさとは仮置きした前提に対する過程の正しさであり、得られた結果の社会的な適切さや妥当性には直結しない。
前提が誤っていれば過程が正しくても結果はいくらでも誤りうるし、誤らざるを得ないのである。
だから論理的思考の使い手が出してくる論理の正しさだけに目が眩むと痛い目を見ることが多々ある。
それに論理を構成するにあたってわかっていつつも軽視したり意図的に無視したりする観点は多いし、それらの観点に相手の目や意識を向けさせないための技法はいくらでもあり、実際にもよく使われる。
また論理の中に意識的にも無意識的にも混ぜられる詭弁を見抜くのはなかなか難しい。
即断即決が求められる状況であればなおさらである。
そして物事を本当に論理だけで判断できる人は実際にはごく少ないのであって、論者の印象や社会的地位、メディアなどでの過去の露出に判断は簡単に大きく左右されてしまう。
だからこそ嘘をついたり詐欺を行う時は、全体的にはいい話に思わせておき、重要なところだが目立たないところに罠を張るのだし、そもそも相手に自分を徐々に信用させここぞというところで裏切るという長期的な展望を持って行われるものなのである。

長々と書いたが、要は論理はそのままでは結構信用ならないということだ。
そんな論理を補助したり補完するのに使えるのが批判的思考である。
論理と批判で両輪であり二つ揃ってこそ意味がある。
片方だけあってもその場から動けないし、バランスが崩れていると真っ直ぐには進めなくてぐるぐると同じところを回るだけになる。

批判的思考では論理的思考のような前提はない。
もちろん批判的思考でも与えられた状況において自分の意見を持ちそれを主張するのは変わらない。
だが、その意見が流動的でも途中で正反対のものに変わろうとも全然構わない。
結果として出てくる意見の多様性や観点の切り口の多さこそが批判的思考の価値である。
一人の人間が様々な観点で考えられる技能こそが、意思決定や問題解決の場で強く求められるものなのである。
批判的思考はそういう技能を育てるものだ。

私が批判的思考または批判という行為について認識していることを書き下してみる。

・批判とは非難や悪口、難癖ではない
批判的思考を学ぶには、このよくある勘違いや思い込みからまず脱する必要がある。

・批判では和を乱すことを恐れない
批判的思考は協調や説得のための技術ではないのだから当たり前のことだ。

・批判では意見を述べることを恐れない
意見が述べられなければ批判的思考はできないし、権威や権力、利害関係などの社会的立場や関係性などにより提示された意見を封殺・黙殺・無視することは許されない。

・批判では意見が食い違うことを恐れない
むしろ出てくる意見が食い違わないなら批判的思考をできているとは到底言えない。

・批判では立場は固定されない
物事に関わる人たちには必ず複数の見方や立場があることを率直に認めそれを常に意識するのが批判的思考の大前提であって、自分の立場も固定はされず状況に応じていくらでも変えていい。

・批判で述べられた意見は消え去らない
意見の誤りに気付いたのなら訂正するのは全く構わないが、提示された意見そのものは消え去らず批判の履歴として残り続けるし後から参照もされる。

・批判として述べられた意見は特定個人に紐付かない
意見は個人から出るものだが、何かの意見を述べたことへの責任を批判の場で負うことはないし、批判の場から一歩外へ出たのなら自分が述べた意見に束縛されることはない。

・批判は結論を出すためのものではない
批判的思考では物事の様々な観点を提示して、その可能性や価値を評価することが中心なのであり、その過程において意見同士の関係性を見出すことも同時に行われる。

・批判は論理的でなければならない
感情、感覚だけに基づく意見は批判では決してなく、意見の根拠を明確に述べられなければならないし、論理に基づく説明可能性が強く求められる。

・批判では異なる意見を理解しようとする姿勢が必須である
自分の意見と異なる意見を理解不能だと最初からみなしてはならず、対話や理由の分析を通じて理解に近付く試みは常に行われなければならない。

・批判は扱っているモノやテーマ、行為に対して行う
意見を述べた個人や個人の人格への直接的な攻撃は批判と呼べるものでは断じてない。

・批判は他人や多数派へ盲目的に従うことではない
自分が主張する意見は自分自身で説明できなければならず、権威や立場に基づいているだけの意見は批判だとはみなされないし、世の中で多数派とされている意見だとしても疑わなければならない。

・批判では「私」は特別な存在ではない
「私」は意見を引き出す上で使える最も近い情報源や最初の意見の出どころであるだけで、他の情報源とはあくまで対等であり、特別だったり特権的な位置にはない。

と、こんな感じだろうか。
ざっと読み返してみると、批判とは数人で行う行為であることを暗黙的な前提にしている感がある。
しかしそんなことは決してない。
批判的思考は一人でもごく普通にできるし、一人でいくつもの役をしても全然構わない。
批判的思考とは、表現を変えれば一人ディベートなのだと私は認識している。
ディベートを行う上で登場する役割、つまり進行役や参加者たち、ついでに観客たちの立場も含めてすべて一人だけで行うのだ。

ディベートの場は議論を行うために人為的に作られたものであり、職場や組織、社会において自然発生するものではない。
人為的に作られた場であるのなら、その場に参加する人間は与えられた役割を徹底して演じなければならない。
これは演劇と同じようなものだ。
ただし演じるべき台本が最初になく即興で書かれていくのである。
さらに即興劇だとしてもその場を見ている観客が納得したり満足したりできなければ演劇としては失敗なのである。
そしてその場が閉じられたのなら役者たちは日常の役割に戻り、場の中で行われたことは一切追求されない。
そういう議論の場、批判の場を自分の頭の中で作り出し自分の力だけで行う。
それが自由自在にできるのなら世の中の大抵のことには慌てることはなくなる。
まあ私はその域には全然達していないわけなのだが。

何にせよ。
批判的であることは悪いことでは全然ない。
批判することに及び腰ではつまらない。
自分の外部から与えられたものを批判せずに素直に率直に受け取るのでは物足りない。
批判できてこそ視野が広がり視座が高くなる。
私は批判についてこんな感じに考えているし、この意味での批判は一生やめないだろう。

格好いい

格好いい自分、というものを私は全然想像できない。
内面はともかく、ひとまず外面の話だとして。
不潔や場違いと格好悪いは違うだろう。
それらの逆も同様だ。
世の中において格好いい、格好悪いとされる基準を私は知らない。
他人が私のことをどう見ているかも知らないし、聞いたこともないし、評価を求められたこともない。

格好いいと見られるため、思われるための努力は私にはよくわからない。
服装や装飾品で表面上を飾り付けたり、肉体を鍛えたり物理的にいじったりはできる。
だが飾り付けとは元の状態へつけ足すことであり、肉体は鍛えても維持しなければ元の状態に勝手に戻っていく。
いずれにせよ何かが本質的に変わったわけではない。
維持し続けなければ格好いいままでいられない。
その手の努力なり行動にはどうにも違和感がある、なぜか違和感がある。
格好悪いとされる状態も、その状態を維持する行動をしているからそうなる。
例えば現代では太っていることは格好悪いとされる。
だが、太るというのはそもそも能動的な行動だ。
食べれば太るし食べ続ければ太る一方になる。
逆に食べなければ痩せるのは自然の摂理だ。
そして人間という生物は素の状態ではとても地味である。
警告色のような派手でわかりやすい色使いの状態で生まれてくる人間は一人もいない。
となると、生物としての自然な状態からどれだけかけ離れることができ、さらにそのかけ離れた状態をどれだけ維持できるかが、世の中で言う格好いいということなのだろうか。
格好よさそのものではなく、格好よさを維持し続けるための努力に人々は称賛を送っているのだろうか。

格好いい、格好悪いには他人の存在が必要だ。
他人からどう見られるか、他人と比べて自分はどうか、ということのはずだから。
そしてその他人の中には自分自身も含まれる。
自分自身がなりうると思われる状態や過去の自分の状態を今と比べる、ということだ。
つまり今の自分ではない自分との比較、である。
そういう比較においては、正直言って自分というものがよくわからなくなってくる。
自分という存在は滑らかに連続しているわけだが、どこでどう変わったと言えるのか。
他人と自分は違うものだというのはわかる。
でも他人とは違う抽象的な自分、理想的な自分というものがあるわけではない。
あるのは過去の自分であり今の自分である。
私はそう考えるからか、自分らしい、自分らしくない、という考え方も私には正直よくわからない。
例えば私は派手な服装、場違いな服装は好まない。
だがそれはそういう服装をするのが自分らしくないと感じるから、ではない。
何かの場で浮いた服装でいることは面倒なトラブルの原因になりうるからでしかない。
私にとって他人との比較はそんな程度のものでしかないと思われる。
要は私は他人から注目を浴びたくないのだ。
特に外見が違うことでの注目を。

内面が外面ににじみ出る、とはよく言われる。
でも内面は外面で覆い隠せるし、人々はその外面にたやすく騙されもする。
服飾や装飾のプロはごまかし騙すプロでもある。
内面は変えずに外面をごまかして印象を変える。
馬子にも衣装、というやつだ。
そういうプロは人類の歴史と共にあり続けてきたしこれからもあり続ける。
ごまかす、騙すというのはプロに対してあまりに失礼な言い方なのは重々承知している。
けれどもやはり私はそう感じてしまう。
格好いいという概念は人為的に作られるものだからであろう。
人為的に作られるものだからこそ技術として発展しうるし展開されうる。
さらに一つの体系として定義されうる。
人間に対する技術や体系なら、原則として誰に対しても適用可能である。
しかし適用可能なことが適用を積極的に推進する理由として直結・短絡はしないだろうし、押し付けを正当化できるわけでもあるまい。
そこに歪みや自己都合、自己正当化のようなものが見え隠れしている気はする。

他人の内面というものはわからない。
自分の内面ですらよくわからないのだから当然だ。
対人技術が優れている人は、他人の内面が手に取るように読めるとされる。
でも実際は怪しいものだと私は思う。
辻占いと同じで、見た目、言動、状況から得られる情報を一般的なルールと突き合わせているだけではないのか。
なので内面を読んではいないし読めはしない。
外面からわかることで判断しているだけだ。
むしろ外面による判断しか人間には方法が与えられていないのだ。
そして今まさに書いているような誰に向けて書いているわけでもない独白のごとき文章であっても、私の内面を完全に率直に表せているわけでは全然ない。
私が感じていることをそっくりそのまま書けていないのは確実だ。
それでも諦めきれずにみっともなく続けているのだ、格好悪くもがいてるのだ。
見た目も言葉も行動も、所詮は外面の表現形式の一つでしかない。
であるからには、格好いいというのは記号なのか。
自分はこういう人間であると主張し他人に自分のことをなんとなくでもわかってもらうため手段なのか。
同じ記号や似た記号を身に着けていれば同じ考え方をしていて、違う記号ならば違う考え方をしているという識別子の一種なのか。
周囲の人間の立ち位置や距離感が分からなければ人間はその状況に不安を感じるのであって、他人を見て格好いい、格好悪いと感じるのはその解決方法の一つなのか。
でもその手のことを主張したいとかわかってもらいたいという衝動が大してない私には無意味なものである気もするのだ。

格好いいという概念が他人との関係性の中で定義され評価されるものであるなら、ずっと一人でいる私には、集団の中でも浮いている私には、その状態でも平気な私には、根本的に理解不能だったり共感不能なものである気がしてくる。

よくわからないな、やはり。
考えるべき方向性が違う気がする。

引き継ぎ

特定の人にしかできない仕事は実質的にない。
その場にたまたまその人しかいないだけだ。
能力的なものではないし才能的なものでもない。
組織においてすべての人員は交換可能である。
交換不可能なかけがえのない人員、はどこにも存在しない。
そうでなければ引き継ぎというものは行えない。
そして今ではその交換先なり引き継ぎ先は人でなくてもよく、機械やAIだったりする。
引き継ぎには大なり小なりコストがかかる。
そのコストを払う気が組織にあるかだけだ。
コストを払う気がなければ組織はいずれ必ず衰退し崩壊する。
でも崩壊する時期がいつになるかはわからないので、棚上げにしがちである。
それに能力がある人がそこにずっといてくれる、という根拠のない思い込みや楽観さが組織を運営する側にはあったりする。
でもそんなことを誰も何も保証はしてくれない。
引き継ぎの仕方にも組織の傾向は出る。
引き継ぐコストを短期間で一気に支払って終わらせるか、長期的に比較的低額を支払い続けるか、という方針の違いはある。
引き継ぐ代わりに組織の外部から人を引っ張ってくるのは常に可能である。
とは言え人を引っ張ってくるのにもコストがかかる。
一般的には有能な人は高コストで、十把一絡げな人は低コストである。
しかしどちらであるにしてもその人を使ってみないことには実際にどんな能力があるかはわからないので試用期間というものがある。
だからどうしても時間というコストはかかる。
引き継ぎには種々のコストの他にも危険性がある。
形式だけの引き継ぎは何かがどこかが弱くなり脆くなる。
引き継ぎの時にはアウトプットが必ずされる。
暗黙知であったものが形式知になる。
しかしその暗黙知を100%形式知にはできない。
感覚、観点、直感、それらのものを言葉にするのは難しい。
やっている本人でも実際のモノ以外での表現が難しいのである。
だから容易に目に見える、再現させられそうな手順だけでも残そうとする。
だがその手順の裏には莫大な経験値があり、その経験値はどうしても引き継げない。
経験値というものは特定の個人に属しているものだと私は思う。
技能は誰にでも身に着けられるが、経験は特定個人の私有物である。
組織の経験値というものがあるという主張には、私はかなり懐疑的だ。
組織の力というものはどこまで行っても個人の力の合計である、と私は思っている。
手順というものは放っておいても勝手に生えてこないし成長せず改善もされない。
すべては個人が行う結果とその蓄積なのである。
個人の経験値は引き継げないので代わりに手順を変えられないものとして引き継ぐ。
すると本当に変えられなくなってしまう。
そういうものなのだという思い込みがだんだん強くなり、疑問を抱かなくなる。
手順を最重視するようになったなら組織の終わりが近づいてくる。
引き継ぎは変えないためのものであり、同時に変えていくためのものでもある。
人が変われば見方が変わるしやり方も変わる。
むしろ変わらざるを得ない。
以前と同じようには決してできはしない。
だが同じような成果を求められるし、引き継いだ人への期待感によっては今まで以上の成果を求められることもあろう。
何にせよ、いい方向と悪い方向のどちらかはわからないが、とにかく変化はする。
その変化を是とするか否とするか。
しかし引き継いだからにはもう元には戻らない。
なのでその変化を前提にして組織を運営していく他はない。