見た目

古い証明写真がいくつか出てきた。
古いと言っても、最も古いものでも2012年なので、12年前。
その2012年、2016年、2019年と、大体3~4年間隔の写真になっている。
2012年のものは、若い!!
何より、髪がまだ黒い。
確かに側頭部に白髪はちらほらあるものの、それでも全体的には圧倒的に黒い。
当時は「白髪が他の人より多いな」なんて思っていたが、今から見れば、全然大したことはない。
だが、記憶ではそこから、側頭部の白髪化が一気に進行したはず。
ちなみに、手元にある自分の写真で最も古いものは、自分が21~2歳くらいの頃のもの。
危険物取扱者の免許証に貼ってある写真で、更新し忘れていたものが、そのまま残っている。
それと比べても、ものすごく変わっているという印象は受けない。
でも、確実に年は取っているのは分かる。
2016年(といっても年末だが)のものは、髪の長さが他と違うので印象は異なるとは言え、側頭部がほぼ白髪だ。
大体8~9割くらいは白髪になっている。
2012からの4年間には、実に色々なことが起きた。
そのストレスが、白髪へダイレクトに現れている気がする。
顔も、一気に年を取った感じがする。
2019年の写真は、今とかなり近い。
でも、まだ頭の上の方は黒い髪が多い。
今では白髪がはるかに優勢なので、そういう時期もあったんだな、と。
ということで、この10年くらいで見た目の老化が一気に進んだ印象だ。
今のところ、後頭部はまだ黒い髪がある。
後頭部は、5~6割強くらいが白髪、という感じだろうか。
あと、体の他の所の毛も、ぼちぼち白くなり始めている。
具体的には、眉毛や髭とか、その他もろもろ。
でも、別にどうでもいいや、と思っている。
というか、昔から白髪は気にしていなかった。
なので、ほぼ白髪になった今でも、白髪ぼかしや髪を染めるのにも興味はないし、やる気も全然ない。
例え、自分の周りの同年代の人達が、まだ黒ぐろとした髪をしていても。
自分の年代で、髪がほとんど真っ白だというのが、そこそこ珍しいのだとしても。
なぜなら、見た目をちょっとばかり人工的に変えても、実態が変わるわけでは決してないのだから。
実態は、自分が一番良く分かっているのだから。
その辺は、ずっと昔からそういう考えのまま。
その時々の物理的な自分を、そのまま受け入れる。
そういう感じ。
まあこれは、自分が今のところ五体満足で、病気もしていないからかも。
そこから変わったら、精神的にも変わるかも。
さて、昔から写真は積極的に撮っておらず、撮らせてもいない。
撮っていたのは、書類を出すのに必要な、証明写真くらいしかない。
だから、昔の自分がどういう見た目をしていたのか、よく分からなかったりもする。
それに証明写真は無表情なので、自分がどういう印象を他人に与えていたのかも、全然分からない。
自分にとっては今しかない。
だから、以前の写真が出てきてそれを眺めたのは、ちょっと面白かった。
昔付き合っていた人たちにとっては、自分の印象は昔のままだろう。
近況などは伝えていないし。
そもそも、生きているかも分からない。
まあ、人の印象が昔のままなのは、自分もそう。
それらの人が今どういう見た目になっているのかの予測は、かなり難しそう。
そう言えば、今通っている床屋は、もう20年近い付き合いになっている。
と言うことは、そこのご主人は、自分の白髪化をつぶさに観察していることになる。
散髪中にご主人と話はしない。
けれど、もしかしたら「この人、昔と比べると、ずいぶん髪が白くなったね」とか、ご主人は常々思っているのかも。
床屋へ行くタイミングは、大体2ヶ月ごと。
だから、その都度写真を撮っていたなら、自分の老化が連続的に分かって面白かったかもしれない。
それ、やってみようかな?

掃除と片付け

今日は、朝から夕方前まで、ひたすら掃除と片付け。
自分にしては非常に珍しく、部屋に人が来るから仕方がなく。
これは、浮ついた話では全くない。
来るのは不動産管理会社の人だし。
普段は、いわゆる汚部屋。
片付けした結果、かなり久し振りに、ドアから机まで歩くルート以外にある畳が、その姿を現した。
片付けをしながら、畳の上に層を作っていたものたちを確認した感じでは、畳が出てきたのは3年ぶりくらいか。
こう書いていると、自分は駄目な奴だ、とあらためて思う。
自分は、こういう機会でもないと、部屋の掃除や片付けを全然しない。
一応、人が来るからと、掃除と片付けをやるだけの体面というか、恥ずかしさを感じる感受性なり世間体はある模様だ。
それがあるだけでも、まだマシなのか?
開き直って「これが自分の部屋だ、文句あるか」とは、さすがにできない。
そして一旦始めさえすれば、無心になって延々と掃除と片付けをしてしまう。
掃除と片付けをしていて、だんだんきれいになっていくのが、楽しいのは事実。
だから、掃除と片付けそのものが嫌い、というわけではないのだろう。
でも、その始めるためのトリガーを、なかなか自分から引けない。
多分、掃除と片付けが、自分にとって習慣や当たり前になっていないから。
部屋の中には紙が多いから、全部スキャンして画像にしてしまえば、もっとましになるのだろうか。
だが、その後はHDDがぐちゃぐちゃになるだけなのだろうか。
自分の家…というか部屋は、基本的に食べて寝る場所でしかない。
それ以外だと、本を読む場所?
本はずっと前に電子書籍へ切り替えたので、物理的にどこにあるかを気にしなくてよくなって久しい。
だから、部屋がぐちゃぐちゃでも自分は気にならない。
まあそれでも、世間一般で、稼働時間の管理が厳しくなる前に比べれば、自分の生活はずいぶん変わったとは思う。
何と言っても、自炊をしているからなぁ。
この自分が。
血圧管理が目的とは言え。
でも、仕事に向き合う姿勢は、昔から全然変わっていないわけで。
それは習慣というよりも、習性とでもいうものだろうか。
その習性は一生変わらなさそう。

予測

頭の中に浮かんだことを、言葉にしておかないとモヤモヤする。
本に書いてあることの受け売りではあるが。
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予測してあれば、それが起きた時に戸惑わないし、普通と同じ動き・判断ができる(ことが多い)。
予測していなければ、それが起きた時に戸惑って動揺し、普通とは違った動き・判断をしてしまう。
人間は、想定外のことに直面すると動揺する。
目の前のことが見えなくなる。
当たり前のことも分からなくなる。
そのくらい、通常とは違った精神状態になる。
自分も、想定外のことに直面するとそうなるから、よく分かる。
自分の人生を振り返ってみて、明らかに判断ミスをしたなという時は、大体そういう時。
だから、予測は超重要。
予測は、自分の経験からしてもいいし、他人の経験やセオリーを参考にするのも有効だと思う。
ごくオーソドックスなことから、かなり突拍子もないことまで、考えが及ぶ範囲で予測する。
自分を特別視せずに、客観的に自分なり状況なり環境を見て、どういうことが起きうるかを予測する。
ここで、予測したことが実際に起きるかどうかは、別の話。
だって、未来のことなんて、誰にも分からないから。
確率の話と言ってもいい。
そうなってくると、手元にある材料で予測するしかない。
数字にはしづらいだろうが、それでも予測したことは、可能性が高そう・まあまあ・低そう・まずないだろうくらいに分類したい。
起きる可能性が低そうなら、そういうこともあるかもね…と、気楽にのんびり構えておけばいい。
まあ、そういうことは、そうそう起こらないから。
逆に、起きそうなら手を打っておけばいいし、手を打てないのなら何らかの覚悟をしておくだけ。
心配し過ぎるというのは、一種の才能ではある。
色々と予測ができるということだから。
そういうスキルは、ないよりはある方がいいのではないかな。
でも、それぞれの心配事の発生可能性を考えず、心配事を単純に羅列するだけでは、そこから動けなくなる。
ぐるぐる同じ所を回るだけで、前に進んでいない状態になる。
その状況は、AIの領域で言うところの、フレーム問題と似ている。
それは、目の前にあることの重みづけをルール化することが難しい 、ということだと理解している。
ルールの一つとして、直感でどれだけ起こりそう、というのは、悪くはないと思う。
直感と考えなしのやぶれかぶれは、明確に違う。
直感には、その人の経験・歴史・価値判断基準・論理・暗黙知が、その裏にある。
それらがスパッと動いて状況を解釈した、というだけ。
そんな感じで直感したことを、後から振り返ってみると、結果的に正しかったということが多い。
話を聞いたり、状況を見て、なんとなく違和感があった時も、そんな感じ。
少なくとも、自分はそう。
と言っても、直感を全面的に信用してはいない。
結構間違うし。
それでも方向性を考える時には大事にしている。
すぐ動かなければならない時は、出来る範囲で予想はするが、直感をまず大事にして、自分で判断する。
自分で判断するということは、自分のしたことに自分が責任を取るということ。
そして、自分のしたことに、結果はどうあれ納得する、ということ。
自分で予測し、判断し、行動したのだから、後悔はしないし、してはいけない。
結果に対して、反省はするけれど後悔はしない。
大事な所で、他人に判断を委ねると、多分後悔する。
その結果に、自分が納得できないから。
納得できないことは、ずるずると引きずる。
ずっと忘れられない。
そういうのが積み重なると、がんじがらめになってしまって、動けなくなる。
でも、そういうのは自分の立ち方次第ではないのかな、とも思う。

知識と知恵

つらつらと、なんとなく考えたこと。
まあ、当たり前のことではある。
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知っていることの絶対量を増やすのは意味がある
複数領域の繋がりを理解するヒントにもなる
でも、短期記憶程度の刻まれ方しかされていない知識は、いずれ忘れる
興味がなければ、1分もしないうちに忘れる
まあ、知った時にすぐ復唱すると、さすがに1分では忘れない
そこから理由を知ると、忘れる時間を多少は伸ばせる
さらに理由に納得すると、もっと伸ばせる
後は、納得した理由を思い出す、あるいは再構築するトリガーになる言葉・キーワードだけ、覚えるかメモする
それは、自分だけが分かるキーワードでいい
というか、そうであるべき
他人の体験・経験・思い出は、他人のものでしかないから、印象が強くてもすぐ忘れる
比べて、自分の個人的な体験・経験・思い出は、そうそう忘れられるものではない
逆に、忘れたくても忘れられない
そこで強烈な体験をしていればなおさら
自分が忘れられないものは、長期記憶になっている
だから、長期記憶になっているものに、色々なものを紐付ければいい
とっかかりを思い出せたら、他は全部論理で繋げていけばいい
そうすれば、そもそも全体を暗記なり覚え込まずに済む
そういうインデックス化の仕組みが、知恵ではなかろうか
例えば、自分のプログラミングの原体験は、C言語アセンブリ言語(x86系)・Java
他のプログラミング言語は、それらからの±で覚えている
データベースの原体験はOracle
他のDBMSは、Oracleからの±で覚えている
他の分野も、大抵はそんな感じで、何かのベースからの±および論理による紐付け
長年生きていれば、いやでも体験は溜まっていく
それすなわち、紐付けられるものが増えていくということ
そういう観点からは、年を取るのも悪いことではないのかも
それに、今なら知識はすぐに検索できる
知識だけは大量に手に入る
これだけの情報量を手軽に得られるのは、人類史上初めての状況のはず
それらの知識の海に、素の人間が何も考えずに乗り出すと、迷うし溺れる
だからこそ、羅針盤としてのキーワードが重要である

生成AIをITエンジニアとしてどうとらえるか?

とある人からお題が出たので、ざっと書いてみた文章。
内容は大したことではなく、世の中でもう散々言い尽くされたことでもある。
でも、自分が生成AIを仕事で使ってみた後の、率直な感想を残しておくことの意味はあるのではないかな、とも思った。

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生成AIは、エンジニアの生産性を大きく向上する手段としては大変有効である。
しかし、あくまで作業支援の手段でしかなく、仕事における人間の価値あるいは必要性を根本的になくすものではない、という判断をしている。

私は今の現場で、Chat-GPTやGitHub CopilotなどのAI支援サービスを使用している。
私は主に調査やコーディングで使用しているが、生成AIが非常に高精度なコード生成・コード提案をしてくるのに大変感心している。
その結果、生成AIに対する私の評価は、良い方向へ一変した。

具体例を挙げると、一般的なプログラミングにおけるイディオムを学習・理解しており、多少のヒントを与えたならば、ほぼ正解のコードを提示してくる。
また、一般的なライブラリ(言語組み込み、サードパーティ製問わず)の使用方法も高いレベルで理解しており、適切な使い方を一発で提示してくる。
さらに、自プロジェクトのソースコードも解析・理解しており、プロジェクト内の規約、記述のされ方を分かった上でのコード提案も行ってくる。

こういう状況であるため、生成AIの導入後は、私は中核になる仕組みやロジックの実装に集中できている。
これは、いわゆるボイラーテンプレートのように定型的だったり、実装イメージが自分にとって分かり切ったものや、当たり前になっているもののコーディングは、生成AIにほぼ任せられるのが分かったからである。
言い方を変えるなら、コーディングにおいて、手間だったり面倒くさいことをすべて押し付けられる、もう一人の自分が常に身近にいる、という認識をしているほどである。
そのため、今では私は、これらの生成AIがないコーディングは考えられない。
なお、生産性の向上も大変感じており、それを事例を交えて顧客にレポートした結果、プロジェクト全体での生成AIの導入が決定した。

ただし、当然ながら生成AI側はプロジェクトの要件・要求は理解していないので、その部分はこちらからコードであらかじめ表現しておく必要がある。
それに、チャットでコード例を提示させる時も、こちらから具体的な実現イメージや要求をプロンプトで明確に指示しなければ、生成AIが提示するコード例は一般的なものに留まるため、コピー&ペーストでそのまま使えるというレベルからは程遠い。

また、私の立場では「このプロジェクトはどういうものか、どうあるべきか」を常に考え、それをコードやシステム構成で表現・実現しなければならない。
この「このプロジェクトはどういうものか、どうあるべきか」を考えることは、(現時点での)生成AIでは行ってくれない。

私のエンジニアとしての責務は、顧客へ要求をヒアリングしてまとめ上げ、要求を要件へ変換して顧客と合意し、チームに目的・目標を提示して、その実現に向けチームを導くことである。
私のエンジニアとしての価値は、そういったことを高いレベルで自立して行えることである。
それらは、生成AIには今のところ対応できない領域である。
だから、私にとっては価値実現に活用できる非常に強力な手段が手に入ったという認識でしかなく、脅威はまったく感じない。

逆に、手順書に従った作業しか行えなかったり、コードで実現すべき価値への意識が低いエンジニアには、生成AIは大きな脅威になり得る。
しかし、コーディングは手段でしかなく、価値の実現こそが自身の存在意義であると強く意識しているエンジニアにとっては、生成AIは非常に強力なツールである。
そして、生成AIと向き合うことは、自分の仕事とは本質的に何であるか、さらにその仕事で作り出している価値とは何であるのか、ということを見直すいい機会になるであろう。

献血230回目

献血回数:230回目 前回 次回
実施日時:2024/03/16 10:30~11:00くらい
実施場所:みぞのくち献血ルーム
献血方法:400ml
次回献血可能日:2024/06/08(全血)、2024/08/04(血漿、血小板)
備考:今日は大体一年に一回の全血の日。問診の事前回答は家でやった。ルームに到着して、人の少なさに少し驚く。土曜の午前中はこんなものだったか? 問診から検査へはノンストップで行けて、さらに採血開始もノンストップ。普段は、なかなかこういう風には進まない。採血中はKindleで読書。全血なのですぐ終わってしまったし、看護士さんからも「いつもよりずっと早いですねー」的なことを言われてしまった…。そりゃそうだ。処遇品はミンティアとポーチを貰う。ミンティアは、別段献血ルーム仕様でもない、普通のもの。ポーチのデザインは、けんけつちゃんとCroKuma。またけんけつちゃんコレクションが増えた。採血機はKL-103。次回は、6月にまた全血をやって、9月から成分を再開させようと思う。

献血229回目

献血回数:229回目 前回 次回
実施日時:2024/03/02 14:00~16:00くらい
実施場所:みぞのくち献血ルーム
献血方法:血小板
次回献血可能日:2024/03/16(全血)、2024/08/04(血漿、血小板)
備考:午後一の予約に対して、少々早めにルームに到着。今日は問診事前回答を忘れたので、タブレットをポチポチした。問診、検査は何もなし。ただし、血液の成分分析が終わる前に血小板にしたいと言ってきたので、ノルマ的なものがあったのだろうか。採血に使ったベッドは、やはり採血室の一番奥の、自分にとっては定位置的な場所。採血中の保温体制は、開始後しばらくしてから、お湯ビニを手に持ったのと、上半身への毛布の追加。これは冬場の標準装備という感じ。採血中は最初は本を読んでいたが、眠くなったのでうとうとしていた。それでも、血を抜かれている手は動かさない。今日は採血の時間が少々長かった感じはする。処遇品は貰わず。採血機はトリマアクセル。今回で年間上限回数に到達したので、次回は全血で予約済み。そこから夏まで献血はお休み。