言語化というやつは、そんなに難しいことなのかな?
別に、歴史に残るような大文学作品を書こうというわけでもないのだろうから、ごく気軽にやってみればいいのだ。
やっていればそのうちできるようになるんじゃないかな。
と無責任に書いていると、言語化が苦手な人からは「それができりゃ苦労はねーんだよ」と文句を言われるのだろう。
でもなー、そう言われてもなー、やっているからできるというのは事実だし、それ以上に言いようがないと思うのだ。
誰でも最初から何でも上手くできるはずがない。
失敗するのが当たり前だと思う。
失敗するから上手くなる。
失敗から学ぶから上手くなる。
失敗してもやり続けるから上手くなる。
自分は駄目なんだと諦めるとそこが自分の限界になる。
実はそんな限界なんてないのだけれど。
そこが限界だというのは自分の思い込みでしかない。
ハウツー本の類で、これをやっておけば失敗はしない、というのが売りのものがある。
そういうものは、自分はあまり好きではない。
手続きしか書いていなくて、理由が書かれていないようなものや、書いてあることをとにかく信じろというノリのもの。
所詮は付け焼き刃程度でしかなく、自分の基礎にはならない。
とは言え、やり続けることには意味がある。
意識的にやるにせよ、無意識でやるにせよ。
ただ、単純に惰性でやり続けるのではあまり意味がなく、やっているということを明確に意識するべきで、かつ、できる範囲で少しずつ改善すべき。
一つ一つの改善は出たとこ勝負の対処療法だとしても、それが果てしなく積み重なるととんでもないことになる。
例えば、人間がいつでも喋られるのは当たり前のことだと思われている。
でも、実は当たり前のことではないと自分は思っていたりする。
普段から喋っているからいつでも喋られるというだけなのだ。
これは、スキル的にも肉体的にもそうだ。
自分はしばらく喋らないことがある。
具体的には夏休みとかだ。
その期間内は他人と全く喋らないし、下手をすると食事以外で口を開くことすらない。
すると、夏休み開けは見事に喋れなくなっている。
感覚的には、顔とかのどにある、しゃべるための筋肉が衰えている感じ。
あるいは喋り方を忘れる感じ。
喋り方を思い出し、しばらく喋り続けると治るが、それまではギクシャクした感じが続く。
普通の週末でも、油断すると月曜日の朝は喋りが不自然になっていたりする。
日本語で文章が書けるのも、日本語で書かれた文章が読めるのも、日本語で話されている会話が理解できるのも、そういう環境に普段からいるからだ。
生まれてこの方、ずっとそういう環境に居続けて、そういうことをやり続けているからだ。
単にそれだけなんだと思っている。
なので、自分が生まれてすぐアメリカにでも放り出されていたら、普通に英語が使える人間になっていただろうと思う。
人間は勝手に環境に適応する。
まあ、自分は日本を出たことがないから、ずっと海外にいるとどうなるのかは分からない。
でも、海外にずっといると日本語が使えなくなるのだとしたら、まあそうだよなとは思う。
やっていなければ忘れ去る。
思い出すのは比較的簡単なのだろうけれど、表面上忘れはしてしまう。
こんな感じで、当たり前にできると思っていることでも、普段からの有形無形の積み重ねがあってこそできているのだし、できる状態をたまたま維持できているに過ぎない。
何かをできるようになるには、その何かをまず始め、少しずつやり続けなければならない。
やらなければできないし、できるようになることはありえない。
やっていればできるようになる(かもしれない)し、でき続ける(かもしれない)。
本当にそれだけなのだろう。
自分が意識してやっていることがどれだけあるか。
一挙手一投足、全ての行動を意図的に行っているか。
そういう意識があるか。
自分の全ての行動を、何かが上手くなるための練習の場として認識できているか。
その認識があればいやでも変わる。
まあ、さすがに起きてから寝るまでの全行動を意識的にやるのはやりすぎな気はする。
でも、意識的にやることを何か決めてやってみると、いいことはあるのではないかな。
例として、自分は打ち合わせでも何でも、喋るスキルの練習の場として使っている。
そういう場で何かをやっても、別に怒られはしないし。
喋ったあとに、いい悪いを自分で判定する。
その判定が駄目だと、自分一人でがっくりする。
文章を書く時も、自分としてのルールがある。
実際にルールがどのくらいあるのか分からないが、それなりの数はありそう。
ある意味、ゲームみたいになっていて、ルール違反をしたら減点されるという感じだ。
普通の人は、概ね一日八時間労働している。
その八時間をどう過ごそうが、その人の勝手ではある。
投入時間に見合う成果物をちゃんと出していれば、上司から怒られることはない。
しかし、つまらないなーとか早く終わらないかなーと思いながらなんとなく過ごす八時間と、何かを意識しながら集中し続ける八時間では、密度のようなものが違う。
そういう高密度な時間が、一週間で四十時間、一ヶ月で百六十時間、一年で千九百二十時間と積み重なったなら、そりゃあ、その仕事に対する当たり前が変わるはずだ。
こういうものも、単にやっているかどうかで変わるのではないかと思っている。