基準

自分の基準をどこに置いているか。
基準を下げるのは簡単だ。
基準を上げるのは難しく、時間もかかる。
だから、基準を高くするように普段から行動するべきだ。

基準を下げることは、手抜きをすることでもある。
その手を抜く箇所を、普段から基準を高く持っている人は間違えない。
どうあるべきかは、いつでも見えている。
その見えているものの中で、手抜きであっても死守すべきことが何かを適切に選べる。
手抜きをするために捨てたことに対して、納得感のある説明ができる。
やれるけれど、何かの理由があってあえてやらない。
やれないからと諦めて、そもそも最初から努力しない。
この二つは全く違うものだし、他者から見てもすぐ分かる。

基準を設定する際は、相対的なものと絶対的なものとに分ける。

皆で同じようなことをしているなら、自分の基準が相対的に周囲よりも高ければ、成果が評価されたり注目されたりする可能性が高まる。
つまり、比較された時に上回る箇所がなにかあればいいということだ。
基準を一時的に下げるとしても、比較して劣っていなければ評価は下がらない。
だから、今いる場所の基準を把握する。
他者の成果を自分に関係ないことだからと無視しない。
上位者がどういうことを評価しているのかを察する。
そういう観察は怠ってはならないし、その観察は環境が変わった時に最初にやることだ。
そして、観察して得られた周囲の基準が、その時の自分の基準を上回っているか下回っているかを判断する。
上回っているなら、そこから差異の分析と学習が始まる。
下回っているなら、その基準に合わせる必要は何もないし、自分の基準でやり続ければいい。

しかし、比較対象とできる基準が周囲にないことがある。
あるいは、周囲の基準が低すぎて、周囲に合わせていたら意味がないことがある。
そういう時には、外部に基準を求めなければならない。
外部とは、チームの外、部門の外、会社の外のいずれでもありうる。
そもそも、基準が高いか低いかの判断は、絶対的な何かと比較しなければ行えない。
絶対的な高さの基準を知らなければ、井の中の蛙になり、努力をしなくなる。
絶対的な高さの基準を知るには、一流に接しなければならない。
一流の何かに接することは、一流の成果を出す彼らが持つ基準の高さを知ることにつながる。
それに、自分の中での一流がどこに設定されるのかは、そこまでに自分がどんな一流に接してきたかに依存する。
一流に接する時は、彼らがどういう目線で何を見ているのかを知らなければならない。
一流な人たちの成果だけ見てすごいと驚いているだけでは、ほめたたえているだけでは、自分の基準は何も変わらない。

基準の高さには実力の高さが伴っていなければならない。
実力の高さは基準の高さが作るとも言える。
言っていることとやっていることが違っては、よい印象は持たれない。
ここで、基準の高い人と同じことを発言したにもかかわらず、その発言に説得力がないのは、発言をした人に実力がないからだ。
正確には、周囲から実力がないと思われているからだ。
単発の発言は単発の効果に終わる。
一瞬の印象でしかなく、そんなものはすぐに忘れ去られる。
忘れ去られないために、発言をし続け、そのとおりの結果を出し続ける。
そういう積み重ねが、実力のある人という周囲の印象を作る。
そんな周囲の印象を壊さないよう、自分の基準を高く保ち続ける。
その高く保ち続けた基準がいつしか自分の当り前になる。
そういうループが回っている。

周りの人の仕事の進め方を見ていると、彼らの基準の低さが気になる。
彼らの基準の低さは、彼ら自身でそのように設定しているものなのか、そもそも基準というものを持っていないのではなかろうか、とも思えてしまう。
彼らは何のために仕事をしているのだろう、どこを向いて仕事をしているのだろう、どんな満足感を仕事から得ているのだろう、続けてそんなことを考える。
自分は、周囲に高い基準を求めすぎているとはよく言われる。
お前の基準は高すぎて、普通の要員では実現できないのだとも言われる。
では、彼らは高い基準とは何かをどこで学び、自己を高め続けるループにどこで入るのか。
そういう自分の疑問に、自分が納得できる答えを与えてくれた人はいない。
高い基準を求められる状況に追い込まれた時に初めて、自分の基準の低さに気付いたのでは遅いのだ、遅すぎるのだ。
高い基準に接するタイミングは、人生の中で早ければ早いほどいい。
その人が高い基準を目指すかどうかは、その人に選ばせればいい。
高い基準を目指す人はループに入るし、ループに入らないのなら別にそれでいい。
だが、その選択すらさせないのは罪とすら言える行為ではないのだろうか?