取扱説明書

理由付けに失敗したなら決して動かない。
それが自分という人間だ。

自分は理由がなければ動かない人間の典型例だ。
衝動とか直感では動かない、動くつもりもない。
義務だと言われれば一応動くけれど積極的ではないしズルズルと先延ばしにする。
見て見ぬふりを平気でするから、正義感というものはないのだろうし、日本人としての倫理観は一応あるはずだが、それらは論理よりは優先度が低い。
見え透いたお世辞やおだてには絶対乗らず、それが社交辞令的なものだと分かっていても突っかかって関係性をぶち壊し、しかもそれを全然気にしない。
自分をおだてる人や憧れを無邪気に口にする人へは、こいつは人を見る目がない馬鹿なんじゃねえのと内心では見下すから、態度が自然ときつくなる。
人が自分をおだてたり、一見いい気分にさせることを言ってくるのは何か罠にはめようとしているからである、とも考えるので警戒レベルが一気に上る。
自己評価が低いこともあり、自分ができることは他人ができて当たり前だと思っている。
気を使われるのが嫌いで、自分は大した価値のない人間なのだから、大多数の中の一人として標準的に機械的に扱われるべきと思っている。
常に個人で動き、集団で動く時はその必要性がある時だけ。
皆がこうしている、という状況だけでは動かないし、不安にもならない。
今まで性格や傾向の判定で論理的以外の結果になったことがなく、それは昔からずっと一貫していて、変わる気配も全然なく、むしろより強くこじらせている。
だから、いわゆる感覚派や協調派の人間とは相容れないし、ものすごく対立する。
ふわふわした理由やいい加減な理由で人や組織を動かし費用を投入し、それで失敗したならお前はステークホルダーへどう説明しどう責任を取るつもりなんだ、という感じで詰め寄る。

実に扱いづらい人間、冷たい人間。

でも実は扱いは簡単だと思っている。
人間関係の傾向と対策における類型の一つにある論理的な人というだけだから。
論理的な人は、最も与し易いタイプだと思うのだ。
その理由は、論理バリバリな人には理由を説明して納得させればいいだけで、根回しも搦手も心理的な手練手管も何もいらず、理屈や正論での正面突破ができうるからだ。
ふわふわした形容詞で曖昧に表現されている理由を具体的に論理的に述べればいいだけだ。
論理を組み立てること自体は、状況や自分自身を客観視できさえすれば、絶望的に難しいことや不可能なことでは決してなく、できないのは単に慣れておらず練習が足らないだけ。
むしろ感覚的に動いたり判断する方がよほど難しく、かつ怖いとも感じるし、天才ではない凡人にできることは、結局のところ論理の組み立てや積み上げしかないのだと思っている。
言い換えれば、論理が分からないと自分自身が承諾しようとしていることに安心したり納得できないということだ。
まあ、組み立てた論理には浅い深い・狭い広いがあるのだけれど、大した論理でないとしてもそれをスタートラインにすればいいだけだ。
組み立てた論理を説明する時には、論理的な人から情け容赦なくザクザク切り刻まれるが、それに一時的に耐え抜けばいいだけだし、その準備や覚悟をしておけばいいだけでもあり、しかも説明する時にどういう展開になるかは予見可能でもある。
論理的な人は感覚的だったり感情的な反論は(あまり)せず、理由をとことん聞いたり、説明の中の矛盾点を突いたりして反論してくるはずだ。
その反論がズレていることは普通にあり得るが、それに対しては論理の組み立てや積み上げの中のどこでお互いの主張がズレているのかを一つ一つ確認していくだけでいいのだから、対応としてはごく簡単なことなのだ。
これは、他の状況よりも対応が楽だと思われる。
例えば、理由は明確にできないが何となく嫌だと言われるとか、生理的に受け付けられないといきなり拒絶されるとか、宗教上の理由で絶対に認められないし曲げられない、というような取り付く島もない状況よりはずっと。
なぜなら、お互いに歩み寄れる余地がどこにあるのかを探ることができるのだから。
論理的な人は、こういう感じで理由をきっちり正々堂々と真正面から正論で説明できる人を信頼し、そう説明できない人は信頼しない。
感情のような搦手や、皆がそうしているからいうようなことを一番最初に出して説得しようとする人は信頼しない。
自分自身を卑下して、上下関係や影響力で物事を動かそうとする人を信頼しない。
それらはすべて論理的ではないからだ。

あと、論理中心の人はこう考える。
どんな類型の人であっても、その類型における論理は必ずある。
そうすること、そうあることがその人にとって心地よいから、そのように考えるし動く。
そういう動きは論理的や合理的としか表現のしようがないものであって、その論理を形作るロジックや価値の判断基準、ルールのようなものが違うだけだ。
つまり、人は全員が例外なく論理的な存在であり、だからこそすべてが論理で説明できる、というのが論理を最優先する人の世界の捉え方だ。
だからこそ、論理的な説明ができない人に嫌悪感を抱く。
お前も本質的には論理的な存在なのだから、当然論理的に語ることができるはずだろ? お前の価値判断の基準を語ることはできるはずだろ? 論理的に判断する基準がなければ一歩たりとも動けはしないのだから、というのが根本的な信念だ。
そして、論理的に語れないのは、表現するための努力をしておらず単に怠慢なだけ、思考停止をして楽しているだけ、疑問に思ったり感じたことや現実に向き合うことから逃げているだけ、なように思えるからだ。
まあ、少なくとも自分はそう考える人であることを念頭に、上手く取り扱ってくれればいい。
それだけだ。